amarido 雑記帖

日々思ったことを書いていこうと思います。

ロリータと愛

ウラジーミル・ナブコフの「ロリータ」を読んだ。ロリコンゴスロリの「ロリータ」の語源になっている小説である。

感想を一言で言うと、「愛とは何か」を考えさせられた。主人公ハンバート・ハンバートは下宿先の12歳の少女ドロレス(愛称:ロリータ)を愛するようになる。ハンバートは、ロリータ目当てにその母親である、未亡人の女主人と結婚するというなかなかやばい人物である。話の中では眉を顰めたくなるような出来事も多々あった。ただ、私はそこに歪んではいるものの、ハンバートの愛を感じた。

話の中で、クレア・クィルティという劇作家が出てくる。彼はロリータに辱めを与えている。正直、第三者から見るとハンバートもクレアも、やっていることは胸糞悪い犯罪である。だが、ハンバートはクレアのやったことが許せず、彼を殺害する。ここで思ったことは、愛は形では理解できないものだということだ。他人からは同じに見えることをでも、片方は愛の、片方は残虐さの発露であるということがあり得るのだ。

それを描写するために、ナブコフは少女性愛というテーマを選んだのではないかと思う。世間から嫌悪されるものであっても、そこにはその人にとっての愛がある場合がある。

また、このテーマで書いたナブコフは勇気の人だと思う。世間からどう思われるかを気にしていてはこの本は絶対に書けていないであろう。実際、出版当時は内容について論争が起こったようだ。よく「人は一生に一冊は本を書ける」という話を聞くが、これは世間の評価を気にせず、自分の経験や考えなどを真にそのまま書ければ、それは人が読みたいと思うほどに価値のあるものになるということではないかと、この本を読んで思った。だが、それをやるのは本当に難しいことだと思う。

「ロリータ」を読み終わった直後は、やはり後味が悪かったのと、長かったのでやっと読み終えたかという思いだったのだが、数日経つと内容が思考の中に滲みてきた。通勤で歩いているときなど、ふとしたタイミングで「ああ、作者が伝えたかったのはこういうことなのかな」と考えが浮かび上がってきた。そういう小説はこれまであまりなく、そういうところが名作と言われる所以なのだろうなと思った。

物欲とエネルギー

村上龍さんの「案外、買い物好き」を読んだ。村上龍さんの作品では「コインロッカー・ベイビーズ」と「55歳のハローライフ」、あと子供の頃に「13歳のハローワーク」を読んだことがあるけれど、エッセイは初めてだ。

印象としては、村上さんはエネルギーがある人なんだろうなと思った。作家さんは皆そうなのかもしれないけれど、文章で人を引きつけて、読ませて、何か伝えるというのは、書く人自身にすごいエネルギーがないとできないことだと思う。演劇やライブを観ると、出演している人のエネルギーの大きさに驚くけれど、ものを媒介させて人を引きつけるためにはそれくらいの、いやそれ以上に大きなエネルギーが必要なのではないか。村上さんのそのエネルギーは買い物という方向に発散されたときにもとても大きくて、そのためにイタリアでシャツを20枚買うという結果になるのだと思う。

私は自分では比較的物欲がない方だと思っていた。友人の買い物話を面白く聞きつつ、私は物にそんなに夢中になれないんだよなーとどこか醒めた感想を持っていた。しかし、最近ちょっと物欲が強くなってきた気がする。通勤用のバッグが壊れてしまったのでネットで色々と探していたのだけれど、これが楽しいのである。外に買い物に出ると体力的に疲れてしまって、見て回る途中でもういいやと思ってくるのだが、ネットは疲れ知らずだ。もちろんたくさんの商品を見ていると頭が疲れてくるのだけれど、そうしたらパソコンをぱたんと閉じて、また明日に持ち越せばいい。実店舗では気後れして入れないようなブランドショップでも、ネットであればパジャマにすっぴんで見て回れる。いい時代になったものだと思う。結局自分の基準では高めのバッグをネットで買ったのだが、高いものを買うと買った後も高揚感が続く。実は私は高いものを買う楽しみを知らなかったから、物欲がないと思いこんでいただけかもしれない…。おお怖い。

ともかく、個人的には、欲望がある人の方が魅力的だと思う。エネルギーがないと欲望もない。今年は「今これがほしいんだよね!」と物欲のある、エネルギッシュな人間になることを目標にしたい。